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2024年度第3回アキバテクノクラブオープンセミナーを開催しました      


見学の様子

2024/7/25
2024年度第3回アキバテクノクラブオープンセミナー
 
講師:立川寸志氏
講演「柳橋と大川/船宿と船遊び」
落語「船徳」

2024年第3回オープンセミナーは、立川寸志さんをお招きし、昨年11月の「浅草橋から両国まで落語の舞台を歩く」で散策した、柳橋や大川(現在の隅田川)及び船宿や船遊びについてのお話と、落語「船徳」を一席演じていただきました。講師の立川寸志さんは立川流二つ目で、大学では近世史を専攻。江戸時代の風俗にも詳しく、解説付きの落語講座が好評の落語家さんです。

■ 江戸時代の水運についてのおはなし
 まずは今回ご披露いただく落語「船徳」の背景として、江戸時代の水運についてお話いただきました。
 江戸時代には大川(現在の隅田川)にかかる橋は5つ。北から千住大橋、吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋でした。大川に5つしか橋がないため、渡河するための「渡し(渡し舟・渡船場)」が盛んに設置されました。江戸時代を通じて渡しは増え続け明治末期までには20ほどになっていたようです。配布資料の切絵図にも「御厩の渡し」の文字が見えました。
 江戸に入った徳川家康は、埋め立てや川の流れを変えるなどして、水路を整理します。こうして張り巡らされた水路が配布資料にもある、「三味線堀」や時代小説にもよく登場する「八丁堀」で、小名木川のように行徳の塩を運ぶために掘られたものもありました。そして物流の起点になったのが「河岸」で、「魚河岸、塩河岸、米河岸」など物流の品が名前になったものから、「浜町河岸、芝口河岸」など地名のついた河岸もあり、現在も堀や河岸の名が地名に残るほど、江戸の水路は人々の暮らしを支えていました。

■ 船遊びと船宿のおはなし
 水路が張り巡らされた江戸のまちでは、船は身近な交通手段として、配布資料「江戸名所図会・鎧之渡し」に描かれているように様々な船が行き交っていたようです。屋根船、猪牙舟、渡し舟、荷船、押送船(八丁櫓)それぞれ特徴があり、なかでも猪牙舟は速度が速く、吉原遊郭に通う遊客がよく使っていたそうです。
 このような船を所有し、遊びの足として提供していたのが「船宿」で、柳橋はその集積地であり、ほかにも筥崎や山谷掘が船宿の集まる土地として有名でした。文化文政期には600軒もの船宿があったといわれています。 柳橋から北に行くと吉原があり、船に乗って吉原に行くことはステータスでもあったようです。また駒形堂でおりて浅草寺に行くこともあり、「物を運ぶ」から「人を運ぶ」ようになった船をもつ 船宿は、このような遊び客の送り迎えにも乗り出し、その後、吉原にある
引手茶屋(紹介所)のような紹介業を始めたり、密会に使いたいお客のために船宿の2階を貸座敷にするなどサービスの幅を広げていったそうです。
 この日の落語「船徳」は、船宿に居候をはじめた若旦那が船頭となって引き起こすドタバタを描いたものです。浅草寺の四万六千日に行こうとするお客を素人船頭の若旦那が船で浅草まで送る、ということで時期は、浅草寺の四万六千日(ほうずき市)の行われる7月です。このような背景を頭にいれたところで、休憩をはさんでいよいよ、落語の口演です。

(写真をクリックいただくと講演の様子がご覧いただけます)

口演・懇親会の様子

■ 落語「船徳」と懇親会
  とはいえ、落語は生ものなので、ここでは、船をうまくあやつれず、船にふりまわされる若旦那徳さんと、揺れに揺れる船の上で翻弄されるお客を寸志さんが熱演されたことだけお伝えします。
 さて会場の皆さんからも寸志さんの熱演に盛大な拍手が送られたところで、セミナーは終了し、懇親会へと場を移しました。
 懇親会場では、生の落語は初めてという大学生が寸志さんに質問をしたり、そこに落語に詳しい方が加わるなど、様々な世代が落語の話題を通しておおいに盛り上がりました。
 落語はそれ自体で楽しめるものではありますが、背景や場所を知ることで更に楽しみが深まることを実感したセミナーとなりました。

(写真をクリックいただくと口演と懇親会の様子がご覧いただけます)

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